機動戦士ガンダムユニコーンRE:0096について書きます。
2010年~2014年にかけて全7巻でOVA化された作品が、再編集をされてテレビシリーズ化。
OVAの方は以前に視聴していて、ストーリーや音楽、MS同士の戦闘描写でものすごく楽しませてくれた作品です。
話的に知っているので視聴しようか迷ったけど、結局視聴してしまいました。
公式ツイッターでつぶやかれる際の推奨ハッシュタグは「#g_uc」です。
作品を見ての感想や考察、個人的な評価を書いてます。
作品の詳細
スタッフ詳細
- 原作:矢立肇、富野由悠季、福井晴敏
- 監督:古橋一浩
- 脚本・シリーズ構成:むとうやすゆき
- キャラクターデザイン:高橋久美子
- 音楽:澤野弘之
- 製作会社:サンライズ
- 製作:サンライズ、メ~テレ
主要キャラキャスト詳細
- バナージ・リンクス:内山昂輝
- オードリー・バーン:藤村歩
- フル・フロンタル:池田秀一
- マリーダ・クルス:甲斐田裕子
- リディ・マーセナス:浪川大輔
- スベロア・ジンネマン:手塚秀彰
- カーディアス・ビスト:菅生隆之
- サイアム・ビスト:永井一郎
機動戦士ガンダムユニコーンRE:0096公式PV
気になったキャラ・セリフ
『マスターはよせ』スベロア・ジンネマン
ジンネマンの事をマスターと呼んだマリーダ・クルスに対してのセリフ。
これ、1話だからOVA版で1巻に出てきたセリフだけど、この時点では二人の関係性がまったく不明だったからスルーしてたけど、今聞くとかなり意味深いセリフ。
ジンネマンのマリーダに対する想いの一端がこのセリフには含まれていると思う。
よくよく見ていくとこんな見逃しがちなとこでもキャラクターの人間性をつかめる。
何気ないセリフでも、セリフってすげー重要なんだなぁ。
第1話の感想・考察・評価
正直視聴するかどうか迷っていた作品。
なぜかというと、単純にOVAのBDを1巻~7巻まで購入して視聴済みだからw
ガンダムUCがテレビシリーズでやるって聞いた時は、OVA版から何か大幅な修正が加えられるのか?
と期待をしたが、情報を集めてみると、多少の新規カットや、演出が修正されている部分があるという事だけど、OVA版からはそれ程大きな修正はないとの事。
テレビシリーズ化を聞いた時は胸躍ったけど、これ聞いてけっこうがっくりした。
なので内容知ってしまってる状態だから、新たにテレビシリーズを視聴する気がなかなか起きなかった。
けど、甲鉄城のカバネリを見たての俺の脳内での変換が進んだ。
『甲鉄城のカバネリ視聴』
↓↓↓
『澤野弘之の楽曲はやっぱりいいね』
↓↓↓
『そういやガンダムUCもだったっけか』
↓↓↓
『ガンダムUCのBGM聴こう』
※ガンダムUCのBGM集1をオーディオに入れて部屋で大音量で聴く
↓↓↓
『RE:I AMとStarRingChild聴きたくなってきた』
※youtubeでAimer Official YouTube Channelで聴く
↓↓↓
『Aimerと澤野弘之やっぱいいわぁ』
↓↓↓
『そういやテレビシリーズのOPとEDも澤野弘之が新しく手掛けてるんだっけか』
↓↓↓
『テレビ版視聴してみっかな』
とこういった脳内変換があり、視聴してみる事にしたwww
まぁ間抜けな自分語りはこの辺にして、1話の冒頭が、バナージが父親であるカーディアス・ビストとの、別れでもあり親子の邂逅を成し遂げたあとのユニコーンの起動シーン。
正直いってOVA版の冒頭のシーンがどうだったか細かい記憶が定かじゃないんだけど、これをOP前にもってきて、ユニコーンの起動時にかかるBGMの『UNICORN』これだけでもってかれちゃいましたわ。
演出的には、いきなりの変更点があったので、OVA版を視聴した事がある人でも、入り込みやすいように作ってくれているんじゃいかと感じた。
基本的には、テレビでやるって事はまだOVA版を視聴した事がない人も、ユニコーンという作品に触れてもらう事が目的でもあるんだろうけど、元からのファンも満足させるだけのものを制作側が作ろうとしないと、テレビシリーズをやる意味がないように感じる。
そういう意味では、バナージとカーディアス二人のやり取りからユニコーン起動というシーンを、ど頭にもってくる演出は、見た事あるシーンでも使い方次第で、初見じゃない人も満足できるだけのものを作れるのかもしれないなと思わせてくれた。
内容をOVA版で知ってしまっている俺としては、OPやEDがどんな仕上がりになっているのかが非常に気になっていた。
冒頭のシーンからOPに繋がっていたわけだけど、OPのInto the Skyは、バックの戦闘シーンも相まって疾走感も出ていて、OPっぽいOPに仕上がっていた。
OPには、主役MSのユニコーンや、ライバルMSのシナンジュは当然の事だけど、中盤以降から登場するバンシィやネオジオングも登場していて、個人的には、「あれ?ここでネオジオング出しちゃっていいのか?」と一瞬思ったけど、そういや内容的にはすでに世に出てるから問題ないのかと考えた。
OPは、それもあって作中の主要MSがほぼ出てくる形で、音楽と作画面共にかっこいい作りになっていると感じた。
メカ好きの俺としてもやっぱりシナンジュとクシャトリアかっけぇなと、本編前から興奮させてくれた。
OPとかって作中の内容に触れられない制約があったりするんだろうけど、今回のガンダムUCのテレビシリーズに関してはその制約も無くて、制作側としてもかなり作りやすかったのではないかと。
1話の部分は、BDでも当然1話に収録されている部分になっているわけだけど、俺が以前にBDで初めて視聴したのはもう6年前になる。
その後最終巻が出た2014年に再度1巻から視聴したのが最後だから、この部分を見たのは2年前になる。
その時はさして感じなかった事が今改めて見てみると、新しく感じる事がけっこうある。
まずはクシャトリアの戦闘シーン。
ジェガン数機と宇宙空間での戦闘となるが、最後に残ったジェガンはMSの性能差がありそうなのに、クシャトリアのファンネルを掻い潜って、ビームサーベルでの近接戦闘に持ち込んでいる。
この時点でジェガンのパイロットがけっこうな手練れだと認識できた。
サイコミュを搭載するようなオンリーワンの機体に、カスタマイズされてそうだけど量産機で挑むわけだ。
戦場ではこうした戦力の不均衡にさらされてしまえば、パイロットの腕ではどうしようもない事態に陥る事もあるのだなと感じた。
それと、バナージ達が学校で授業を受けているシーン。
ここでは、教師が一年戦争の話から、ジオンダイクンが提唱したニュータイプ思想に関して、論理的な関係値を語る事なく、ザビ家の選民思想の温床となった一部分を持ち出し否定していた。
この部分、本来であればザビ家の選民思想は、ほぼギレンザビ個人の思想であり、ギレンの選民思想が許容される世界を構築する為に、ジオンのニュータイプ思想が利用されたに過ぎないはず。
そこを教師が、ニュータイプ思想の本来の意味を考慮せずに、生徒にまったく別の意味付けをして伝えてしまっている。
この部分を見るに、教育現場で、このような教師の教育が増えると、ある事柄が、教育によって本来の意味とは違うものに変貌してしまうという事がわかる。
OVA版だと、EDは曲と共に、背景が黒でエンドロールが流れているだけだったけど、テレビ版は、新たな映像をバックに曲が流れている。
アニメのEDとしては当然のものなんだけど、OVA版を見てきた俺としては、これだけでもかなり新鮮だった。
しかもEDの頭からラプラスの箱の正体を見せてきちゃってるし。
OVA版を視聴している当時は、作品通してのテーマだったラプラスの箱がいったいなんなのかという事をかなり考えた。
その正体が最終巻で判明した時は、最初は少しだけ拍子抜けした。
けど、よくよく考えてみると、その正体が差し示した事は、初代の機動戦士ガンダムからZ・ZZ・逆襲のシャアといった宇宙世紀を舞台にした歴代のガンダム作品の根幹のテーマの一つである、スペースノイドとアースノイドの争いが、本来あるべき姿のものではないという事。
最終巻を視聴している最中は、フルフロンタルとバナージとの戦闘に意識が行き過ぎてて、あまりその事に対して頭が回らなかったけど、けっこうこれまでのガンダム作品が描いてきた事、スペースノイドとアースノイドの争い、つまりは戦争自体を否定してる事になっている。
作者の福井さんがどういう意図でこの作品を執筆したのかは知らないけど、まさに宇宙世紀100年を総括している作品内容となっている。
一番大きなテーマとして宇宙世紀100年の総括という事があると思うけど、それとは別で、シャア・アズナブルというガンダムという作品の枠に収まらず、アニメ作品全体を通してライバルキャラといえばこのキャラという、歴史的なキャラクターに対する決着をこの作品で描いたのではないかと考える。
シャア自体は、逆襲のシャアで、いつまでも変革をしようとしない地球の人類に絶望して、アクシズを地球に落とし、地球に住めなくする事で強制的に人類をニュータイプへと変革をさせようと試みて失敗をしたわけだけど、その想いは、アムロの奮闘やサイコフレームの共振にほだされた、連邦とネオジオン両軍のパイロットの行動によって果たされる事なく終わった。
強烈な個性を持ったキャラクターの想いはまったく成就する事なく、逆襲のシャアでは、人々の想いと相対する側として最後を迎えていた。
シャアとアムロがどうなったのか劇中では完全には描かれていなかったけど、二人があそこで散ったとしても、両者の想いは、アクシズショックというアムロの願望に沿った形で具現化しており、一方の想いのみが結実した形だった。
方やシャアはどうかというと、作中の結末と対局の価値観として描かれていて、希代のキャラクターとしてはあまりにも無碍に扱われた終わり方じゃなかったかと思う。
そこを、フル・フロンタルというシャア・アズナブルを形にした器を出す事で、作品の最後にシャアの想いをアムロやララァの想いと近付ける事に成功している。
作者の意図がどうだったかは別にして、俺的には、ガンダムUCという作品を視聴して感じた事が、この作品が宇宙世紀100年の総括であるという事と共に、逆襲のシャアで、ちゅうぶらりんのままとなってしまったシャアの想いに決着をつけた作品と感じた。
まぁ難しく考えると作品自体を楽しめなくなるかもしれない。
基本的に、初代ガンダムから逆襲のシャアまでに出てきた、キャラクターも登場するし、MSも一年戦争当時のものや、逆襲のシャア当時のMSからの発展型が登場するので、単純に宇宙世紀のガンダム作品が好きなら楽しめるんじゃないかと思う。
もう知ってしまっている話だけに、楽しめるかどうか疑問だったけど、忘れている場面を思い出したり、シーンによっては新たな発見もできて、再編集とはいえ楽しめそうだ。

アニメ批評家気取り@ヨーズ

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ロニさんに合掌!!